心と体

2021年10月17日 (日)

宇都宮徳馬長男逝く!<本澤二郎の「日本の風景」(4236)

恩師・宇都宮徳馬長男逝く!<本澤二郎の「日本の風景」(4236)

<気丈な夫人(臼井荘一長女)介護に安らかに去った恭三さん>

 昨日の10月15日午後、平和軍縮派の故宇都宮徳馬長男夫人から、悲報が届いた。長期療養中の夫・恭三さんが亡くなったと。気丈な彼女は、しっかりとした口調で、電話口で明かしてくれた。「本当にご苦労さんでした」と応じるほかなかった。

 

 僅かな年金で生活できる凡人ジャーナリストは、大恩ある宇都宮さんと恭三さんのお陰で「厚生年金に入っていた」、そのおかげで現在も生きている。それとは関係なく恩師の遺言「ジャーナリストは断じて権力に屈してはならない」を生涯忘れない。言論人は、すべからくこれを死守する使命がある。

 

 戦争責任者の岸信介を生涯許さず、批判してきた宇都宮さんは、他方で大事に育て上げたNが極右に転向、衝撃的な無念からの遺言だから、その言葉の重みを感じて、今も毎日、ペンを握って折れることはない。左右に屈せず、是々非々を貫く。権力の不正腐敗に対して、妥協することをしなかった見事な政治姿勢を、河野洋平さんや故土井たか子さんらが、戦後日本の稀有な「平和軍縮派」を崇敬して当然だった。

 

 人は「戦闘的リベラリスト」と呼んだ。行動する国際的政治家・行動する言論人だった。右翼に屈することはなかった。長州や薩摩に対抗して屈しなかった、佐賀・鍋島藩の英傑・宇都宮太郎(陸軍大将)の精神が五体にみなぎっていたのだろう。

 

 日中友好など国際的活動の原動力が、自ら立ち上げた肝臓の特効薬で有名な「ミノファーゲン製薬」だった。恭三さんは、実弟と共に営業の第一戦に立って、業績を拡大した。いわば真面目を絵にかいたような息子たちが、縁の下の力持ちだった。

 

 甘草を原料とする「キョウミノ」は、免疫力を高める、ほとんど副作用のない妙薬である。危ないワクチンを打つのであれば、こちらを選択したい。

 

<政界入りを拒絶、政治の世襲を拒否した恭三さん夫妻>

 ところで、昨今の永田町に政治家はいない。政治屋ばかりだ。しかも、政治姿勢は言うまでもなく、政治家としての資質が低すぎて話にならない。世襲議員ばかりが横行している自民党である。追い打ちをかける言論界の凋落である。結果、野党議員までが腐臭をまき散らしている。

 

 宇都宮さんが、生きて岸の孫たちの改憲軍拡論を目撃したら、どうだったろうか。恥ずかしくて日本に住めなかっただろう。ことほど極右政治に怒り狂ったはずである。それに気付こうとしない多くの国民!?

 

 日ごろから、宇都宮政治を見せつけられてきた恭三夫妻は、政治の世襲に反対していたと思われる。恭三さんの政界入りを画策した政治家がいたが、夫妻とも妥協しなかった。父親の薫陶が生きていたのだろう。

 

 夫人もそうだった。彼女は千葉の名門の三木派・臼井荘一(元総務長官)の長女。古武士のような雰囲気をまき散らしながら、その実、穏健リベラルそのもので人格者だった父親の血を引いているが、政治嫌いで知られている。臼井家は息子の日出男(元法相)から現在は、孫が県議という。いずれ政界に打って出ると見られている。 

 

<「ミノファーゲン製薬」は宇都宮恭三夫妻長男・徳一郎君が率いて安泰>

 宇都宮さんが創業した「ミノファーゲン製薬」は、既に恭三さんから、長男の徳一郎君の時代に入り、新たに新薬を次々に世に送り出している。

 

 超有名な「キョウミノ」を最寄りの医院で打とうとしてお願いしたら、宇都宮さんの会社のものでなかったので断った。ということは、その薬の効果よろしきを得て、他社でも真似て製造販売しているのだろう。

 

 「ともかく、この薬は副作用がなくて、免疫力を高めてくれる。白血球を活発化させる。だから俺は、毎日打って社長自ら実験台になっているんだよ」と自信満々の創業者の言葉が思い出される。

 

 徳馬さんも恭三さんも天界で徳一郎君の活躍を見守っている。14億人の中国でも人気を博しているようだ。日中友好の扉を開いた徳馬さんを、今は14億人の人たちの健康に一役買っている。

 

 ともあれ、恭三さんに代わって大変苦労した介護者の夫人に「ご苦労さん」と御礼も言葉かけたい。人生は一瞬、日々大事に大事にして生きる、これが人間の宿命でもある。

2021年10月16日記(東芝製品不買運動の会代表・政治評論家・日本記者クラブ会員)

 

 

2020年12月13日 (日)

カニ物語<本澤二郎の「日本の風景」(3933)

カニ物語<本澤二郎の「日本の風景」(3933)

<中原善正お嬢さんのカニ土産に感激、三度目の舌鼓!>

 カニの季節か?金曜日に会社役員だったO君が、高級菓子パンと食パンを持参してくれた。友人の善意に感激していると、今度は今日の日曜日に、中原さんのお嬢さんが、高級カニを宅送してくるという。これは人生3度目のカニ料理だ、久しぶりに舌鼓を打てそうだ。いつも気が滅入るような話題なので、今日は、つばの出るおいしい話をしたい?

 

 カニ料理の一度目は倅の輝夫が、孝行息子になって、正月前に沢山買いこんで、家族団らんビールで乾杯しながら、胃袋を膨らませた。そんな幸せな時をくれた。有名な上海ガニも何度か食べたが、記憶に残っていない。量が少ないせいであろうか。

 

 二度目は、北海道最北端の稚内市で、たらふく食べたものだから、記憶から消えることはない。カニ料理を嫌いな人はいないだろうが、小ぶりのカニだと、昔話になるが、たとえ料亭の膳に出ても、仲居さんに手伝ってもらわないと食べられなかった。だいたいが食べた気がしない。しかしながら、北海道のそれはロシア漁民から輸入したものに違いないから、カニは大ぶりである。

 

 今回は3度目だ。食べないうちから、舌から唾が出てくるではないか。これは、血税を使っての美食三昧の菅や安倍には、どう転んでも味わうことが出来ない味だろう。

 

<金田英行君(当時衆院議員)の講演会後の宴会でカニの刺身!>

 金田君とは、中大法学部学生の一部が学んだ白門研究会の寮で知り合った。白門とは、東大の赤門に対抗する意味が込められて付けたものらしい。

 お茶の水駅近くの有斐閣という法律専門の出版社で、アルバイトをしたことがある。そこで初めてココアという飲み物を知った。よく本郷の東大の赤門をくぐり、小さな三四郎池をのぞいた。東大法学者の原稿取りである。北京大学校内の巨大な湖水・無名湖と比較は出来ない。

 

 白門研究会は、柳沢という教授が主宰していたもので、寮が確か松戸市の江戸川沿いにあった。旧遊郭を買い取って、6畳一間に学生2人を押し込んで、司法試験と公認会計士の試験勉強をさせてくれた。当時、遊郭の意味も知らなかった。

 そこで友達が3人できた。金田英行、高野利雄、曽我部浩の3君である。彼らは相応に研究室に潜り込んで、意味不明の分厚い法学本とにらめっこ、丸暗記といういかがわしい勉強に熱中していた。筆者は家庭教師や卒業するために、単位を取るべく、御茶ノ水まで通学していて、研究室での勉強どころの騒ぎではなかった。

 

 唯一の取柄は、同大で一番人気で知られた、渥美東洋ゼミにうまく合格、そこに潜り込んだことで、刑事訴訟法をたしなんだことくらいで、胸を張れることなど何もない。当時は学生運動も賑わしく、教室入り口前は勉強机の山でふさいでいたため、休講が多かった。

 

 家庭教師でうれしかったことは、品川区の幼稚園経営者の森さん宅で、両親が苦学生思いのためらしく、夕食まで出してくれた。膳にマグロの刺身が乗った時は、大いに満足した。マグロの刺身など、縁がなかった貧乏学生だったせいである。それこそ、出来の悪い安倍の額を叩いたという、現東北復興相のようなことなど考えられないことだった。

 

 さて色白で男前の金田君は、自分で自慢するほどの自信家。事実、国家公務員上級職に合格、郷里の北海道開発庁に入って、まもなく頭角を現わした。高官の娘を嫁さんにしたことも、出世に貢献したものだろう。長官秘書官を経て、政界入りした。

 

 派閥の要人周りに汗をかいていたころ、議員会館で彼の事務所が目に入った。もう堂々の衆院議員である。「講演を頼む。安いけど」という依頼が、カニ料理に結びついた。日本の最北端・宗谷岬というものだから、二つ返事で応じた。

 

 カニの種類は知らないが、カニの刺身が存在していることに何よりも驚いた。

 

<日本の最北端・宗谷岬で流氷のCDいただく>

 地図を開くと、北海道稚内市である。講演を終えての大宴会が、カニ料理店だったらしく、金田後援会幹部らが「食べろ」「飲め」と催促してくれるものだから、断る理由などなかった。

 

 この時だけは、腹がカニで膨らんだ。翌日宗谷岬に立った。彼方のサハリンは、かすんでいて見えなかった。むろん、流氷の季節ではなかったのだが、流氷という歌のCDをいただいた。

 

 ネットを見ると、金田君は衆院4期でバッジを外している。初めて気づいたのだが、これは筆者の息子の医療事故と関係していたろう。永田町に目を向ける余裕をなくしていたせいである。人間は家族の不幸が一番きつい。

 

<プーチンに騙されて騙されても気付かない愚か者首相>

 北海道を旅すると、日本人はだれでも北方領土問題が脳裏をかすめてくる。ソ連抑留問題もそうだが、北方4島問題である。前者は、中国の配慮の深さに頭が下がるだろう。中国からの帰還兵の多くは、その後に何度も訪中し、感謝の旅をしている。

 

 我が安倍晋三は、数えきれないほどロシアの独裁者・プーチンと会談したが、領土問題は一歩も前進しなかった。むしろ、軍事基地化で大きく後退した。もはや打つ手なしだ。買い取る方法しかないだろう。

 

 安倍はじゃれる猫に等しかった。それでも、安倍外交を宣伝する自民党関係者の気が知れない。愚か者以下であろう。宗男にいいように弄ばれたものであろうが、もしも金田君がいたらこんな恥さらしの外交は、早く打ち切っていたであろう。彼は、故郷の旭川に戻ったのだろうか。

 

<会いたい曽我部博君も松戸の旧遊郭の白門研究会の寮で>

 一番親しくなったのは曽我部君で、おとなしく人懐こい友人として、人間として最高の好人物だった。いつも細い目を、いっそう細めて笑ってくれる。そばにいて、疲れるということがなかった。

 

 遊郭の一室に囲われた研究生にとって、仲間同士飲み食いする機会は一度たりともなかった。「赤門に負けるな」の意気込みからというよりは、そんな余裕などなかった。

 

 研究室は薄暗く、そこに板で仕切った長椅子のような机が並んでいたが、ついぞここが学生で埋まっていたという記憶がない。下宿代わりに潜り込んできた、学生や卒業生もいたらしい。近くを流れる江戸川を散策したという記憶もない。ロマンスどころでなかったのだ。

 

<大平正芳さん似の銅像の顔・相模原市大病院の御曹司>

 曽我部君は、結婚式に呼んでくれた。友人代表として、しゃべるように催促されて閉口した。当時、政治部記者として大平派を担当していた。

 細い目が大平さんに似ていたことから、彼も「銅像になる人物」と持ち上げてしまったのだが、果たして受けたのかどうか。

 

 彼の父親は精神科医で、神奈川県相模原市で大きな病院を経営していたようだ。高度成長期の日本で、精神を病んでいる人たちが多くいることを証明していたのだが、当時の政治記者はそうしたことに関心を持たなかった。

 

 おそらく曽我部君は、父親の後、後継者として経営にタッチする運命に置かれていたはずである。数年前に懐かしく思い、はがきを出したが返ってきた。亡くなったのか、田舎に移転したのか。

 

<努力家・高野利雄君は名古屋高検検事長の出世頭>

 ネットで高野利雄を開くと、彼のニュースがいっぱい出てくる。検察仲間では出世した方であろう。

 

 研究室でも彼は抜群の努力家だった。毎朝そこにこもり、それを夜の10時ごろまで続けていたようだ。大変な努力家で、司法試験のために中大に入学したような学生だった。

 当時の中大の授業料は一番安かった。多くは貧乏な若者が殺到していた大学で、愛校歌の替え歌に「ボロは着てても心は錦」というのがある。現在にぴったりである。

 

 しかし、検事の世界に入った高野君は、この枠をはみ出している。東京地検特捜部副部長や同検事正、名古屋高検検事長も。このポストから、今の検事総長の林真琴は栄転している。

 

 驚いたことに、日本相撲協会理事までしている話題の人物でもあった。国技と喧伝する相撲の源流は、草原の騎馬民族で、肉食のモンゴル相撲だ。ずっと以前から、モンゴル相撲に制覇された国技である。

 

<黙々と研究室に潜り込んで勉強、勉強の日々>

 普通の学生は、女性にあこがれる年齢である。この時に机にへばりつくことは、健康な男子にとって無理である。司法試験どころではない。むしろ、学生結婚した方が、勉強に熱が入るかもしれない。

 

 いえることは、精神的に過酷な環境下で、必死で丸暗記に成功した人物が、難関を突破するわけだから、そんな人物が司法を操っている?となると、民意や日本国憲法順守に徹するのは、至難の業であろう。今の林真琴の、怪しげな対応からも見てとれそうだ。

 いまも冬場に茶色の丹前を着込んで、研究室に入る高野君を思い出すことが出来る。カニ物語が、3人の友人の紹介になってしまった。

2020年12月13日記(東京タイムズ元政治部長・政治評論家・日本記者クラブ会員)

2020年6月29日 (月)

日医・中川新会長に忠言<本澤二郎の「日本の風景」(3729)

 

日医新会長に忠言<本澤二郎の「日本の風景」(3729)

<医療事故に真摯に向き合い遺族の悲劇連鎖を回避せよ!>


 日本医師会の会長選挙で、中川俊男が現職の横倉義武を破って新会長に就任した。「安倍がこける」と次々とこける、それが医師会でも起きた。歓迎したい。この機会に医療事故で泣いている無数の遺族を代表して、厳しい注文を突き付けねばならない。ミスは誰にもある。医師にも病院にも。したがって、その時は、真摯に反省謝罪する医道、医師・病院に舵を切って、国民の信頼を手にしてほしい。

 

 反省と謝罪から、医療事故は減少する。のみならず、残された遺族の心をいやすことが出来る。遺族への悲劇の連鎖を回避できる。我が家の悲劇的体験は、ほかでも起きている。遺族をいやし、救済するためにも、反省と謝罪をする医師と病院へと舵を切ってほしい。日本医師会への切実なお願いである。中川新会長に強く要望、期待したい。

 

<徳洲会・東芝病院の卑怯な医師・看護師を許すな!>

 医療事故は、統計学上、年間最大で4万件以上と言われている。まじめで、まともな善良な医師もいるが、その数はわずかである。医学無知の遺族をよいことに、大半の加害者が嘘と隠ぺいで逃げているのが実情である。

 中国では、怒った遺族が医師を殺害した事件まで起きている。

 

 具体的な事例を紹介すると、日本最大の徳洲会グループの千葉県四街道市の医療事故では、遺族が徳洲会を立ち上げた徳田虎雄の特別顧問をしていた。彼の身内の事故でも、病院側は政治や行政を悪用して、千葉県警の捜査に横やりを入れてきた。そのため捜査は打ち切られ、元特別顧問は抵抗を余儀なくさせられている。

 彼は屈せず、千葉県公安委員会や警察庁、国家公安委員会などに不当捜査を指摘、追及しているが、そこから徐々に判明したことは、TBS強姦魔を逮捕目前で阻止した警視庁刑事部長の中村格が関与したという疑惑が浮上している。

 中村は、言うまでもなく「検察の黒川弘務」のような人物で、官房長官の菅義偉の秘書官から、今では破格の出世をしている。この中村と徳洲会の現理事長が親しい関係にあるということ、過去に中村が千葉県警捜査二課長を歴任していた、という二つの理由から、遺族の刑事告訴を潰したと見られているのだが、筆者も徳洲会疑獄を追及してきたジャーナリストとして頷ける。

 要するに、徳洲会は医療事故に対して、反省謝罪するどころか開き直っているのである。

 

 同じような、事例が我が家の次男正文の東京品川区の東芝経営だった東芝病院でも発生した。誤嚥性肺炎で救急搬送、診察の結果、1週間の入院計画のもとで入院たものの、数時間後に痰がのどに詰まって、非業の死を遂げさせられてしまった。こうした異常死の場合、病院による110番通報が不可欠だが、東芝病院は公然と怠った。したがって、司法解剖をしなかった。保健所にも連絡しなかったらしい。

 

 明々白々の医療事故にも関わらず、なしのつぶて、もう10年経ったが、東芝は反省も謝罪もしない。警視庁に告訴したが、電通が関与してきて報道を封じ込めた。電通は、人々に災いをもたらす大魔神である。電通の株主である共同通信、時事通信さえも告訴記事を配信しなかった。朝日と東京が小さく、申し訳なさそうに活字にしただけ。テレビはTBSのみだった。東京地検の悪徳検事・松本朗は、卑怯にも不起訴にした。理由は「司法解剖していないので、死因の特定が出来ない」と。遺族は怒り狂うしかなかった。

 

 息子を失った数年後に、妻も後追いしてしまった。家族全員の運命が狂わされてしまった無念が、どういうものか、医師に理解できるだろうか。

 改めて強調したい。日本医師会は、医療事故に真正面から向き合う21世紀でなければなるまい。中川・日医に強く求めたい。

 

 課題は少なくないが、政府の医療事故調査委員会は、医師の申告を受けて初めて調査するという欠陥委員会である。カルテの改ざんを処罰できない。加えて、コロナ禍で注目を集めた保健所だが、所長が医師のため、病院と癒着して、医療事故に関与しない。

 年に一度の医道審議会で、医療事故で医師の資格をはく奪された例はなく、形骸審議会となっている。これらの組織は、すべて医師会のためであって、国民・被害者・遺族のためのものではない。新会長に取り組んでもらいたい大きな課題である。

 

<泣いている遺族はゴマン!逃げないで反省謝罪する医師会へ>

 四街道市の及川夫妻は、市原市の帝京大学病院と裁判をしているが、これまた反省と謝罪に積極的ではない。医療事故による大半の遺族は、泣き寝入りしているのが実情である。提訴すると、証拠を隠し、嘘で医療に無知な判事をごまかしてしまう。

 かくして、病院・医師との信頼関係が全く生まれない。医療事故で泣いている遺族・家族はゴマンといる。大事な故人を、忘れることを強要されている有様なのだ。

 当事者になって初めて気づく衝撃的悲劇だが、これは日本医師会の覚醒と正義のかじ取りで大きく改善できる。反省と謝罪する日本の医師と病院に改革する時である。

 

<異常死は即110番通報、司法解剖で死因特定を>

 河井夫妻の選挙違反事件を捜査していた、東京地検の若手検事の急死のことである。余談だが、しかと司法解剖が成されたものか、気になる事案である。

 

 異常死に、医師と病院の110番通報義務は不可欠だ。司法解剖をしてしかと死因を特定しなければならない。東芝事件の教訓である。

 医師と病院は、この原則をあいまいにしてはならない。日医の強い指導を期待したい。 

 

<医師の保健所長と病院の癒着はもってのほか>

 繰り返すが、保健所の対応についてである。所長が医師という事情から、両者の癒着が問題になっている。保健所の大改革が不可欠だ。医療事故と向き合う日医にすることで、課題はおおむね解消するだろう。放置すれば、日本の医療崩壊に拍車をかけることになるだろう。

 中川・日医の勇猛果敢な患者第一の公正医療に期待したい。医療事故家族の心からの願望である。日本社会に明るい希望の灯をともしてもらいたい。

2020年6月29日記(東京タイムズ元政治部長・政治評論家・日本記者クラブ会員)

 


2020/06/28
07:10

 自民党の有力支持団体である日本医師会(日医)の会長選で27日、4期8年にわたりトップを務めた横倉義武氏が落選した。安倍晋三首相ら政権中枢との距離の近さを誇った「長期体制」に対し、くすぶってきた不満が噴出した格好と言える。政府・与党との蜜月関係は今後、変化を余儀なくされそうだ。

 第2次安倍政権発足に先立つ2012年4月、日医副会長だった横倉氏は当時の民主党政権と太いパイプを持った現職を破り会長に就任。副会長が現職会長に引導を渡すのは、くしくも今回と同じ構図だった。

 横倉氏は特に、地元が同じ福岡県で旧知の麻生太郎副総理兼財務相とは、頻繁に電話でやりとりする仲。原則2年に1度、医療の公定価格を決める診療報酬改定では「実際、役所の出る幕はほとんどなかった」(財務省幹部)という。

 一方で、日医内部からは「主張すべきはするのが本来のあり方」(医療関係者)などと、政権との近さへの批判が絶えずあった。さらに、新型コロナウイルスの感染拡大後、横倉氏が一時不出馬を示唆し、結果的に翻意するなど判断がぶれたことも、盤石とみられてきた選挙の様相を一変させた。

 新会長の中川俊男氏は、日医の副会長を長く務め、政府の各審議会では「うるさ型」で鳴らした。介護報酬改定は年末に向けて議論が本格化するが、政府内からは早くも、「今までのようにはいかない」(厚生労働省幹部)と警戒の声が出ている。

 加藤勝信厚労相は27日、首相官邸で記者団に、会長選の結果について「医師会が決めることだ。新会長としてリーダーシップを発揮してもらえると思う」と述べるにとどめた。

 新型コロナウイルス対応でも、感染拡大の中、政府への声高な要求を控えた横倉体制に対し、東京都医師会などは医療提供体制の逼迫(ひっぱく)を受けて、不満を募らせた。会長選では都医師会幹部らが中川氏陣営に参加。中川氏は当選後の記者会見で「政府に言いづらいこともはっきり申し上げる」と言明した。

 会長選終盤で接戦が伝わると、有力な政権幹部が各医師会に対し横倉氏支援に回るよう「介入」したという。来年10月に衆院議員の任期満了が控える中、自民党議員は「ああいうことをやると反発を食らう」と衆院選に与える影響を懸念した。(時事通信)

 

 

2020年4月20日 (月)

お年寄りへ<本澤二郎の「日本の風景」(3660)

 

お年寄りへ<本澤二郎の「日本の風景」(3660)

<「暮れてなお 命の限り 蝉しぐれ」で101歳の長寿がいい>

 昨日、番記者の見た「平成の妖怪・中曾根康弘」という小論をまとめて、月刊誌「月刊タイムス」にメール送信した。確か半年ほど前に、狭い部屋の整理をしていた時に、材木屋のやっちゃんが進んで書いてくれた「為本澤二郎君」の色紙が見つかった。

 やっちゃんの気配り上手は、ナベツネが指導したものであろうが、やはり懐かしい思い出の品である。文面は「暮れてなお 命の限り 蝉しぐれ」である。彼はそうして101年を生きた。

 ロッキード事件・児玉―中曽根ルートを、なんとか切り抜けての天下取りで、すっかり舞い上がってしまった闇のフィクサー・ナベツネの自慢顔を想像できる。

 長寿の政治屋の死去に、人々は礼賛の文字を献上して止まないものだが、ジャーナリストである以上、事実を捻じ曲げるわけにはいかない。

 

 いえることは、いかなる宗教者と言えども、人生は一度きり、そのあとはない。靖国神社に「合祀」されているというフィクションも、事実に反する。一度きりの命を、むざむざと失う者は親不孝であろう。新型コロナウイルスの犠牲者になっていいわけがない。この1、2年は辛抱、辛抱、思索のための貴重な時間として過ごせばいい。これもまた人生に相違ない。

 

<小泉純一郎結婚式の引き出物の時計が今も元気>

 現役時代に「思い出」として、鈴木善幸さんと宮澤喜一さんに色紙を頼んだ。前者は「徳不孤」、後者は「大樹深根」である。二人とも護憲リベラルのまともな政治家だった。鈴木さんは大平・宏池会の参謀から、政権を担当した。岸田文雄は宮澤さんの薫陶を受けながら、国粋主義の外交を踏襲して、落馬してしまったようなもので、残念のきわみである。

 時代は、護憲リベラルを求めている。改憲軍拡の国家主義では断じてない。

 

 本当は、大平正芳さんと宇都宮徳馬さんのが欲しかったのだが、残念ながらない。宇都宮さんは、学生運動やらで、書の訓練をしなかったらしく、文字は上手とはいえず、まことに難解である。秘書の山谷さんが、書き直さないと、今では貴重な軍縮論の月刊誌「軍縮問題資料」の巻頭文を活字にできなかった。

 思い出すと、鳩山邦夫の色紙は、驚くほど下手なのに驚いた。安倍晋三もそうだろう。中曽根さんや田中角栄さんの文字は、力強かった。福田赳夫さんの文字は、もう記憶にない。

 

 福田さんが仲人をした小泉純一郎氏の色紙は無論ないのだが、結婚式の引き出物のちゃちな電子時計が、現在も我が家の狭すぎる玄関で、元気に動いている。一度電池を交換しただけだ。

 

<靖国参拝で怒る中国に青くなったやっちゃん>

 1985年8月15日の中曽根さんの靖国神社公式参拝に対して、中国の政府と党と学生が、激しい抵抗を始めた時のことを思い出す。日本の侵略軍の蛮行による中国人民の被害者は、数千万人に及ぶ。空前絶後の災難を与えた国家神道の本山に、日本の政府代表が参拝することは、中国のみならず、アジア全土に強烈すぎる精神的痛みを与える。

 

 1972年の国交正常化をご破算にするような打撃を与えたことに気づいた中曽根さんは、窮地に立たされてしまった。この危機を救ったのが、元奈良市長から中曽根派議員になっていた鍵田忠三郎さんだ。

 その前段に触れると、日中友好を実現した大平さんと角栄さんの、次なる目標が平和友好条約締結問題。福田内閣の自民党幹事長の大平さんの大事な任務となっていた。福田さんの背後には、米CIAが戦後復権させた岸信介が、監視を強めていたため、これが、大きな壁となっていた。外相の園田直さんの取り込み役が、田中派・愛野與一郎外務政務次官。愛野さんは数回、目白の田中邸に園田さんを呼んで、岸包囲網を実現した。他方で大平さんは、福田タカ派内閣で自信喪失していた北京に立ち上がってもらうため、密使として鍵田奈良市長を派遣した。

 

 福田内閣は、こうして中国との平和友好条約を締結したもので、原動力は大角連合だった。この時の影の立役者となった鍵田さんが、1985年の中曽根ピンチに一役買った。

 

 「二度と靖国参拝させない」という確約の下に北京を説得して、この事件は収束した。この時のやっちゃんの喜びようはなかった。鍵田さんの筆者への報告によると、それは「あの中曽根さんが、わしに何度も頭を下げよったよ。そして繰り返しありがとうというたんだ。アハハ!」と大平密使も大満足だった。ちなみに、西安と奈良市は日中友好都市第一号、これに骨折ったのが大平さんと周恩来総理である。二人とも長寿を蹴飛ばす人生だった。

 

 人生朝露の如し、コロナ禍なれども長寿に勝るものなしか。

2020年4月20日記(東京タイムズ元政治部長・政治評論家・日本記者クラブ会員)

 

 

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