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2024年8月13日 (火)

本澤二郎の「日本の風景」(5253)

本澤二郎の「日本の風景」(5253)

<小林多喜二の映画「蟹工船」を初めて見る>

プロレタリア文学の最高峰・小林多喜二の「蟹工船」を読んでいない凡人が、YouTubeに突然登場した映画を見たのだが、パソコンの小さな枠と黒々とした映像に、飛び交う東北なまりの会話が聞き取れず、期待外れに終わった。しかし、雰囲気は理解できた。

「特高警察の小林惨殺の手口」が気になり、多少詳しいはずの法律家に尋ねてみた。そして改めてネットで調べてみた。関係者の手記を見つけたので貼り付けた。特高警察という国家犯罪の恐ろしい組織は、戦争を前提としたものであろうから、安倍内閣で強行された「共謀罪」を駆使する公安警察が同じような行動を起こす危険性はゼロではないであろう。

やくざ暴力団とつるんでいる千葉県警の警察が存在する今である。時間のある日本人は、蟹工船と小林多喜二惨殺を知っておくべきかもしれない。

 

<房総半島で見る「警察」は本当によく変わったのか?>

やくざ暴力団による「木更津レイプ殺人事件」と袖ヶ浦市林・高谷地区の水銀汚染・陣場台の核汚染ごみ不法投棄事件に絡んで、木更津署と接点ができた。それまでは警察官に対して違和感などなかった。市民を守る警察に好意的だったが、数十年ぶりに足元で見つめた警察とやくざ暴力団の怪しげな人脈に気付いた。

米ハリウッド映画で見た警察とマフィアの関係が、日本でも同様

だった。特に房総半島では真実そのものだった。小選挙区制がその出番を大きく育てていた。

 

<死刑に反対した警察官僚・亀井静香と三木武夫後継者・志賀節>

平和主義者の政治家・三木武夫の後継者と言われた志賀節が、ある時、不思議なことを言った。警察官僚出身の亀井静香をほめちぎるのだ。その理由に納得した。

志賀は、議会内に超党派の死刑廃止議員連盟を立ち上げて注目を集めた正義派の政治家だった。この死刑廃止議連に亀井が参加したという。理由は「警察は何でもできる組織。罪なき者を殺人者にも。男を女、女を男にする以外何でもできる。冤罪をなくすためにも死刑は廃止するのが当たり前」というのだった。

「戦争遺児を強姦・性奴隷・脅迫して殺害した富津生まれのやくざ浜名を生かしてなるものか」との思いが強い凡人ジャーナリストは、間違っているだろうか。浜名事件を免責にした木更津署刑事二課長も同罪ではないか。そのうち彼の名前も公表したい。

 

<「煙突の見える場所」もいい東宝映画>

東京大空襲と敗戦後の貧困時代を生きる、うだつの上がらない30代の夫婦と二階でふすま一枚の仕切の4畳半の男女が醸し出す生活を取り上げた作品の「煙突が見える場所」。生活が狂うとパチンコ・競輪・煙草に手を出す日本人の周辺には、やくざ文化が根付いているらしい。

東宝映画は慶応ボーイの義父・広岡慎次が人生をかけた会社だ。敗戦後の三大争議といわれた東宝争議では、会社側の責任者・総務部長として苦労した。酒におぼれ、50代で胃がんで倒れた。そこでは、占領軍が戦車まで出して労働者を弾圧した。米ソの闘いが始まっていた。義父も責任を取って辞任する。

この映画作品は昭和28年。田舎育ちの筆者も足立区の下町の雰囲気が理解できるだけに、見ていて胸にジーンと迫る。全てが戦争の後遺症である。千住の東電火力発電所の高い煙突は、高度成長期の公害の原点と同時に財閥の復活を象徴している。虫けらのように生きる人間は、いまもその余韻を引きずって43兆円に浮かれている日本か。

2024年8月13日記(茅野村の仙人・日本記者クラブ会員)

 

必読!小林多喜二殺害の真実=ベストアンサーヤフー知恵袋から引用

日本プロレタリア文化連盟の「大衆の友」に載った窪川いね子の「屍の上に」の一節は次のように記している。「午後十一時、阿佐ヶ谷馬橋の小林の家に急ぐ。前田病院へ電話をかけると、死体は自宅へ帰ったというのだ。我々六人はものを言うと慄(ふる)えるような気持ちで、言葉少なく歩いた。昨年三月以前、まだ文化連盟の犠牲者たちが外にいる頃、同志小林を訪ねて来た道である。家近くなると、私は思わず駆け出した。玄関を上がると左手の八畳の部屋、もとの小林の部屋である。江口渙が唐紙を開けてうなづいた。床の間の前に、蒲団の上に横たえられた姿! ああやっぱり小林であった。蒼ざめ、冷たくこわばっているその顔! それはやはり同志小林の顔である。彼は十ケ月ぶりで自分の部屋に帰って来ている。それを彼はもう知らない。我々はそばへよった。安田博士が丁度小林の衣類を脱がせているところであった。我々の目は一斉に、その無残に皮下出血をした大腿部へそそがれた。みんな一様にああ! と声を上げた。蒼白くこわばった両脚の太ももは、すっかり暗紫色に変じている。我々は岩田義道を思い出した。

お母さんが、ああッ、おおッとうなるように声を上げ、涙を流したまま小林のシャツを脱がせていた。中条はそれを手伝いながら「お母さん、気を丈夫に持っていらっしゃいね」、「ええ、大丈夫です」。お母さんは握りしめているハンカチで、涙を両方へこするように拭いて、ははっ、おおっと声を上げた。「心臓が悪いって、どこ心臓が悪い。うちの兄ちゃは、どこも心臓がわるくねえです。心臓がわるければ泳げねえのに、うちの兄ちゃは子供の時からよう泳いどったんです」・・・中略・・・押しあぐる息で、お母さんは苦しそうに胸を弱って、はつッ、おつッと声を上げつづけた。涙を腹立たしそうにこすっては、また顔の上にかがみ、小林のこめかみの傷を撫で「ここを打つと云うことがあるか。ここは命どころだに。はア、ここ打てば誰でも死にますよ」。それから咽喉の縄の跡を撫で、両頬にあるさるぐつわの跡を撫で廻した。しわを延ばすように力を入れてこすり、血を通わそうとするように。お母さんは、小林の顔に、胸に、足に、見るところ毎に、敵の凶暴な手段の跡をはっきりと認めた。おっ母さんが見たように、我々もまた同志小林の顔に、胸に、足に敵の凶暴な手段の跡をはっきりと認めた」。

翌21日夜、多喜二は母親セキの家(東京都杉並区馬橋)に運ばれた。セキは、変わり果てた息子の体を抱きかかえて次のように泣き叫んでいる。

「あぁ痛ましや、痛ましや。心臓まひで死んだなんてウソだでや。子供の時からあんなに泳ぎが上手でいただべに。(中略)心臓の悪い者にどうしてあんだに泳ぎができるだべが。心臓まひだなんてウソだでや。絞め殺しただ。警察のやつが絞め殺しただ。絞められて息が詰まって死んでいくのが、どんなに苦しかっただべが。息のつまるのが、息のつまるのが、、、あぁ痛ましや、痛ましや」。(泣きながら)「これ。あんちゃん。もう一度立てえ!みなさんの見ている前でもう一度立てえ!」。

同志たちが死因を確定するため、遺体解剖を依頼したが、どの大学病院も引き受けなかった。次のように記されている。

「東大と慶応はすでに警視庁の手がまわり断られる。慈恵医大が引き受けてくれて寝台車に遺体を乗せて向かう。医大は警視庁からの圧力にいったん引き受けたのに頑として受けられないと拒否」。

多喜二の遺体の様子につき次のように記されている。

「左右の太ももは多量の内出血で色が変わり膨れ上がっていた。背中一面に痛々しい傷跡があった。手首には縛りあげられたことによりできた縄跡、首にも同様の縄の跡が認められた。左のこめかみ下辺りに打撲傷、向こう脛に深く削った傷跡が残っていた。右の人差し指は骨折していた」。

「安田博士の指揮のもとで検診がはじまる。すさまじいほど青ざめた顔はでこぼこになり、げっそりと頬がこけ眼球がおちくぼみ十歳も老けて見え左のこめかみにはバットで殴られたような跡がある。首にはひとまきぐるりと細引きの跡。両方の手首にも縄の跡。下腹部から両足の膝頭にかけて墨とべにがらを混ぜて塗りつぶしたようなものすごい色に一面染まっている。内出血により膨れ上がっている。ももには錐か釘を打ち込んだような穴が15~6箇所もあいている。脛にも肉を削り取られたような傷がある。右の人差し指が反対側につくぐらい骨折。背中も一面の皮下出血。上の歯も一本ぐらぐらとぶら下がっている状態。内臓を破られたために大量の内出血がすでに腹の中で腐敗し始めていた」。

多喜二の死を知った人たちが次々と杉並の家を訪れたが、待ち構えていた警官に検挙された。3.15事件記念日の3.15日に築地小劇場での葬儀が企画されたが、当日、江口葬儀委員長他が警察に逮捕されたため取り止めになった。多喜二の墓は南小樽の奥沢共同墓地にある。「昭和5年6月2日小林多喜二建立」とあるので、多喜二は絶命の3年前に墓を建立していることになる。

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