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2023年9月28日 (木)

本澤二郎の「日本の風景」(4938)

本澤二郎の「日本の風景」(4938)

<9月29日は北京・八宝山革命公墓に眠る朝鮮戦争の英雄・玄愛華女史の命日>

やくざが跋扈する房総半島を「安心・安全・安定の平和な半島にする」と公約し、毎朝6時30分に木更津駅などで学生や通勤客に声をかけている立憲民主党の樋高剛(たけし)が来訪の折、名刺代わりに「平成の妖怪 大勲位・中曽根康弘」(健友館)を謹呈したところ、彼は真っ先に著者の経歴を見ながら「中国に60回も行ってるんですか」と驚いた様子である。「実際は100回を軽く超えている。ジャーナリストの記録、アルバイト原稿の大半を飛行機代に投入し、自宅はいまも豚小屋レベル」と自己紹介した。

何事も戦闘的リベラリスト・宇都宮徳馬や越谷市の人権派弁護士らの支援といえる。ついでに小さな記録は、20年の間、内閣記者会(永田クラブ)・自民党記者クラブ(平河クラブ)に在籍したこと、それに在京政治部長会8年9か月も。小さな記録ばかりだが、そこから今の自分がある。ただ手抜きしたのは、統一教会問題と神道政治連盟の野望について気付かなかった点である。これは大失態、猛省しきりだ。

 

それでも30冊ほどの本を書いたが、印象に残るものは「平成の妖怪 大勲位・中曽根康弘」と「中国の大警告」である。

 

後者の中国語本を手に取って、当時国家副主席(のちの首席)の胡錦涛が、首相就任前に訪中した小渕恵三らに向かって、彼は「中国人の思いはこの本にすべて書かれている。読んでほしい」と人民大会堂の会見の場で語った。愛読者のもう一人は、中国外交部きっての知日派の肖向前。彼は訪日の機内で読破して、何度も自宅に連絡をくれ、都内の赤坂プリンスホテルで会見した。その時の彼の第一声は「あなたは中国の本当の友人だ」と持ち前の大声で話しかけてきた。

 

そして3人目の愛読者が、家族総動員して朝鮮戦争に命を捧げた英雄の玄愛華さん。彼女は昨年9月29日、97歳で老衰で亡くなったのだが、彼女も92歳の時「中国の大警告」を涙を流しながら、夜も寝ないで読み続け、感動のあまり翌日未明にバスに乗って滞在先まで押しかけて感謝を繰り返した。

 

この本は素朴な思いで、中国人が今何を日本に期待しているのか、期待していないのか、などを旅先で尋ねたり、機内で聞いた話をまとめたものである。その中には新疆ウイグル族の20代の女性もいた。

「平成の妖怪」という本は、出版するとまもなく中曽根サイドから圧力がかかり、出版社が倒産した。筆者の仕事場も無くなった。糧道を断つ中曽根・渡辺恒雄の策略だった。恩師・宇都宮はA級戦犯の昭和の妖怪・岸信介の権力に対抗した。弟子の凡人ジャーナリストは、改憲軍拡の平成の妖怪・中曽根に抵抗した。

 

思うに善悪をわきまえた善人は、誰とも仲良しになれる。悪を排除する勇気は必要である。槍のような風雨に屈しないジャーナリストは、民主主義確立のためには不可欠の存在であろう。14億人の人民とは、ツネに仲良しこよし。南北の朝鮮人とも。宇都宮の平和主義に差別・偏見の壁はなかった。昨今の台湾有事などは、日米右翼の謀略作品であって、人々を偏狭なナショナリズムに追い込んで、平和憲法破壊を目的とした悪魔の所業である。いわんや戦争準備などもってのほかである。

 

<拙著「中国の大警告」(データハウス)に涙した肖向前・胡錦涛に次ぐ愛読者は家族総動員して朝鮮戦争体験者>

東北地方で生まれ育った玄愛華さんの波乱万丈の人生は、夫を早く失い、嫁ぎ先から追い出され、母親の手にひかれながらの日中戦争下の放浪生活!想像を絶する体験を誰も活字に残せない複雑で困難な悲劇の日々を過ごしてきた。

食べるために延安の毛沢東の赤軍に入った夫に家族全員が命を委ねるしかなかった。こんなことは世界でもないだろう。貧困が二重三重にまとわりつく戦果の軍隊生活を、二人の娘の手を引きながら生きる母のきつい軍隊生活さえも、いまでは紹介できない。

ソ連のスターリンにねじを巻かれた中国人民革命軍は、赤軍の林彪が指揮する東北部隊に対して朝鮮戦争の主役を任せるが、最高幹部の林彪は、食うや食わずの戦い疲れのため反対したが、毛沢東は代わりに彭徳懐を総指揮者に任命した。それにしても家族総動員の戦争を聞いたことがない。その時、玄愛華さんにはゼロ歳の長女と2歳の長男がいた。夫と母の5人で朝鮮半島に渡った。ちなみに竹槍と鉄砲の戦いのような中国軍とアメリカ軍の戦闘を、誰もが分かっていた。現に100万の朝鮮派遣軍の死者は想像を超えていた。毛沢東の長男はここで戦死している。



<1972年9月29日は日中国交正常化の記念日>

明日の9月29日は、田中角栄総理と周恩来総理が1972年、戦後最大の外交課題の日中国交正常化のための「共同声明」に署名した記念すべき日。当時訪中した同行記者団は各社とも政治部長。駆け出し記者の筆者は、3歳の長男・春樹を肩車に乗せて羽田空港で見送った。

 

愛華さんは晩年、道路で転んで障害者となった。およそ4、5年の間、北京に滞在中、週2回介護に汗をかいた。両手から両足、頭部を指圧するのだが、次男正文の介護で力をつけた筆者のマッサージを、彼女は一番喜んでくれた。時には北海道の民謡「ソーラン節」を歌ってくれた。

朝鮮戦争では看護兵と日本語通訳で活躍したのだが、同僚は天皇の関東軍から抜け出した日本軍医と看護兵。後者は毎晩泣いていた。様子を尋ねると敗戦目前にしたハルビンでの悲惨すぎる事実を明かした。幼子は逃亡の邪魔になるといって、関東軍の逃亡兵が貨車に幼子を押し込んでガソリンをかけて焼き殺したことや、幼子を自ら殺した事実に共に泣いたという秘話も語ってくれた。

9月29日は国家的にも個人的にも忘れられない記念日となった。人間を差別してはならない。差別が争いの原因である。死の商人は差別主義者である。

2023年9月28日記(反骨ジャーナリスト・政治評論

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