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2022年9月14日 (水)

羅永信おばあちゃん<本澤二郎の「日本の風景」(4564)

羅永信おばあちゃん<本澤二郎の「日本の風景」(4564)

<満洲東北の戦場に花開いた一輪の清らかな木槿の花に感動>

 満洲サタン人脈に制圧された日本の無様な有様を嘲笑うような、美しく清らかな優しい木槿のような、敬天愛人の羅永信おばあちゃんの話を聞いた。もう何度も聞いたが、その都度感動してきた。岸信介・笹川良一・文鮮明のサタンの呪いとは正反対である。

 

 筆者らは、60年代から70年代の中国・毛沢東の脱権闘争で有名な文化大革命を評価する話を聞かされたものだが、現実はその逆で暗黒時代そのものだった。数百万人が亡くなったり自殺した、とも言われている。羅永信おばあちゃんも巻き込まれた。孫たちは「右派の犬、犬」とけしかけられ、生きた心地もしなかったという。多くの中国人にとって文革話はタブーである。

 

 街には紅衛兵が跋扈、当時のそれなりの地位のあった家庭は、すべて彼らの餌食にされ、自尊心のある学者や文化人は、自殺の道を選ぶしかなかった。朝鮮族の医師夫妻は自殺、下放中の娘は米国へ逃亡した。特に都市住民の多くは、赤貧洗うがごとしの貧困生活を強いられた。木の皮や草を食べた。羅永信おばあちゃんは、戦場での放浪生活も災いして持病の喘息と、栄養失調によって、文革で遠方に下方されていた孫と再会することも出来ずに、71歳の若さで命を失った。

 いま孫の娘は71歳。彼女は台所に立つと、羅永信おばあちゃんのことを思い出し、涙を流す。「せめてこの食事を食べさせたい。どんなに喜ぶか」と聞かされる方もつらい。一体、朝鮮族のおばあちゃんはどんな人だったのか。多少、当時の時代背景をなぞりながら、彼女の人柄・生きざまを紹介したい。おそらく人民の目線だと「羅おばあちゃんは、毛沢東よりもはるかに偉大な人物だった」かもしれない。

 

<善人を絵にかいたような利他に生きた勤勉実直親切な一生>

 文鮮明流にいうと、日本の岸のようなサタンが満洲を占拠すると、中国東北地方は破壊され、必然的に抗日戦線が結成される。辺りの漢族・満州族・朝鮮族の村々は戦場と化す。家を焼かれて流浪の民を強いられた羅永信おばあちゃんは、二人の幼子の手を引いて東北の大地をさ迷った。

 その日もその場で過ごす一夜の宿は、農家の小屋や家の軒下である。乞食のような日々だ。人々の小さな助けが3人の命を育んだ。娘の玄愛華女史は、当時の思い出を一つ語ってくれた。「真冬の東北は寒く、道は凍っている。まともな履物もなく、母に言われて、早朝に豆腐屋に駆け込んだ。お金はわずか。豆腐は買えない。豆腐の殻を買った時のことは忘れられない」と。このようなみじめな体験を想像できる日本人はいるだろうか。

 彼女の長女は、羅永信おばあちゃんが生前話してくれたことを記憶していた。「塩を売るため、頭に塩の入った容器を乗せ、二人の娘の手を引いて山を下りて行くと、沢山の農民が泣き叫んでいるではないか。日本軍に家が焼かれてしまい、みな途方に暮れていた。おばあちゃんは皆さんに呼びかけ、激励した。みんなで山に行き、木や茅を切って家を建てましょうと。農民総出で3日で家を完成させたと。おばあちゃんは、団結して、努力すれば、何でも実現できると教えられた」という。

 これもすごい話だ。

 

<下放された孫娘が「おばあちゃん帰ったよ」自宅に駆け込んだが>

 中国人の悲劇はたとえようもなく深く、その根っこに日本の戦前の天皇制国家主義・カルト国家神道が関係している。人間であれば、左右関係なく日中友好は不可欠だ。政治と宗教も。

 15歳で山西省の農村に下放されていた娘が、おばあちゃんに食べさせたい一心で、か弱い肩がすり切れそうになりながら、重い穀物を必死の思いで、北京の自宅に担ぎ込んだ。おばあちゃんの喜ぶ姿が両眼をさえぎった。「おばあちゃん、帰ったよ。いっぱい食べてね」と叫んだが、部屋に誰もいない!何があったのか。ひとり思い悩んでいた母親の玄愛華さんは、ぽつり「亡くなった」と弱々しそうに応えた。

 何ということか、こんな人生があるなんて!娘は泣き叫ぶよりも茫然自失、その場に倒れ込んでしまった。「おばあちゃん」と泣き叫んだのは、それから2か月後だった。時代の潮流、非情な政治、国際関係、東アジアという磁場に翻弄、浮き草のように呑み込まれた木槿の花は、とうとう孫の帰りを生きて再会することが出来なかった。

 

 羅永信おばあちゃんは、一時期僅かな期間、ささやかな幸せを手にした。娘の夫は2万人ほどの国営企業の責任者、娘はそこで働いている社員の幼児の面倒を見る保母さんの責任者。多少の余裕が出来たらしい。彼女は路上で往来する人たちに対して、誰に対しても頭を垂れてあいさつした。路上で働いている労働者を自宅に呼んでお茶を差し上げることも日課となった。寒い季節には、幼児が鼻をたらしているのを見ると、家に呼んで手洗いさせて、菓子を与えた。普通の家では、火事の心配から家での火の利用は禁じられていた。

 国や行政の足らざるところを、必死でカバーすることがまるで生きがいのように振舞った羅永信おばあちゃん。貧しい人たちの間では、人気者になって当然だった。

 彼女の清潔ぶりは、今でも孫たちに影響を与えた。中国は多民族国家であるが、清潔さと勤勉と教育熱心さは、朝鮮族が群を抜いている。僅かな北京生活で気付かされたものだ。彼女の品の良さは呆れかえるばかりだが、二人の娘も八頭身美人だった。

 生活苦を少しでも和らげるため、長女を14歳で嫁に出したが、28歳で産後の肥立ちが悪くて亡くなった。当時の写真を見ると、絶世の美人である。哀れ美人薄命か。

 彼女の娘は、踊りで有名になったが、北京に出る前に高校を卒業していた。女性にも教育を受けさせる朝鮮族は、他民族に引けを取らない。最近は日本でも少なくなったはずだが、朝鮮人を小ばかにするなかれ、である。

 

<中国文革の前後の貧困を生き抜けなかった哀れ71年の生涯>

 二人の幼子を抱えながら戦場を駆け抜けた羅永信おばあちゃんには、娘の玄愛華さんと共に驚くべき武勇伝がある。朝鮮戦争への参戦だ。当時のソ連のスターリンの呼びかけがあったとしても、いかにも乱暴すぎる。毛沢東側近の林彪は反対した。やむなく彭徳懐を選任した。日本軍を一蹴した当時の米軍機動部隊に対して、いうなれば竹やり戦法で迎え撃ったのだから。

 中国志願軍兵士の死者は、すごい数にのぼったろう。これも哀れだが、この戦いに羅永信おばあちゃんは、娘の玄愛華夫妻と生まれて間もない長男と長女を連れるという、文字通り一家総出の参戦となった。これも生きる食うためだったろう?夫は延安時代の戦士の参謀格、娘は衛生兵兼通訳、おばあちゃんは司令官の幼子と娘の二人の孫の面倒を見た。米軍機の爆撃の際は、ひな鳥がヒヨコを守るように命がけの防護服の代わりをした。

 玄愛華女史の話では「朝鮮軍兵士はよく酒を飲んでばかりいた」と証言した。冬季の物資のない志願軍の戦闘によって、今の朝鮮民主主義共和国が存在する。もしも、金日成が羅永信おばあちゃんのことを知っていたら、最高の勲章を差し上げたかもしれない?

 戦場での放浪と参戦と文革に倒れてしまった71年の生涯について、とても筆が動かない。悲惨で壮絶な一生だったろう。せめて僅かな食事と孫たちとの語り合い、そして喘息の治療を受けさせたかった。

 

<安倍国葬を強行する統一教会・韓鶴子と真逆の本当に優しい人間の鏡>

 世の中は悪人ばかりではない。善人もいる。朝鮮半島の人々が、すべてサタンのような人間ばかりではない。心の優しい清い人間もいる。

 「相手が核を持ってるから、自分ももとう」という屁理屈で、利権あさりをする為政者は、やくざレベルだから人間失格である。むろん、文鮮明ばかりの韓国人ばかりではあるまい。寛容な人はいる。真っ先に貧者に目を向ける勇者はいるだろう。

 羅永信おばあちゃんのような、世のため人のために尽くす日本人もいるはずである。安倍国葬は完全に間違っている。岸田はとんでもない側近を選んでしまったらしい。親切な人間も、政治への監視を怠ってはならない。

2022年9月14日記(政治評論家)

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