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2022年1月30日 (日)

北辰電機・辰友会<本澤二郎の「日本の風景」(4340)

北辰電機・辰友会<本澤二郎の「日本の風景」(4340)

<懐かしや!ネットで確認=世襲二代目は実業界も政界どこも駄目>


人間はやれば大抵のことは出来る!インターネットは実に便利だ。過去の思い出を目の前に取り出して見せてくれる。15歳の春、上京して、社会人1年生体験を、この機会に少しばかり記録しておきたい。

 

 君津郡馬来田村の中学校を100人弱の仲間とともに卒業。卒業式では、今では考えられないほど沢山の賞状をもらい、自信をつけることが出来た?直前に、東京・大田区下丸子の北辰電機が50人の中卒者を募集、運よく入った。当時、普通高校に入ったものは、数人しかいなかった時代である。家には、父親か祖父が使ったものか、朽ち果てそうな経机のみ、勉強無縁の環境だった。

 

 時代物の小説をかじったのは、小学校5年生の時。校長室に小さな図書室が出来た時だ。平家物語や源平盛衰記のような物語を、毎日自宅の畳の上で、寝転んで、日が暮れるのも忘れて読んでいて、近眼になってしまった。兄弟で一人眼鏡をかけねばならなかった。この眼鏡を子供同士の相撲で、数回破損した。母にこっそり告げて、新しくしなければならない、この時が子供心に心から親不孝者だと思い、辛い思いをした。母は黙って新調してくれた。今も感謝している。

 

 北辰電機の入社試験を思い立ったのは、母の姉が羽田空港そばの漁師に嫁入りしていた関係である。母の祖父が、当時の田舎ではやり手だったらしい。目の前の竹を大量に伐採、木更津港から船で、大田区大森の海苔問屋におろしていた。自身の宿を確保する拠点にしようとして、孫一人を羽田に送り込んだ。そこで旅館を立ち上げようとしたのだが、娘は病に倒れ、旦那の漁師も台風下、東京湾に呑み込まれ、5人の子供だけが残された。

 

 母は、姉の長男の家に1957年(昭和32年)4月、ピカピカの北辰電機社員を押し付けた。2畳ほどヒサシを出した、雨露をしのげるだけの下宿生活?

も、半年で切り上げた。「便所を汚した」とそこの女主人に叱られて、飛び出すことにした。当時、小さなコンロを買い、その上に母の友人が、就職祝いにいただいた1合か2合炊きの釜を乗せた。それでご飯を炊いて、羽田空港駅から京浜急行の穴森線で蒲田へ、歩いて東急・目蒲線の蒲田駅から下丸子、目指す北辰電機の本社工場に辿り着いた。これがわが社会人のスタートとなった。

 

 思うに人間が生きるためには、住まいの確保が大事である。精神安定の秘訣でもある。間もなくして、下丸子駅前の下宿に移った。既に6畳一間に先輩がいた。二人しての生活である。当時は空腹が辛かった。その後、会社の寮に入って一安心したことを忘れない。といっても、寮も二人住まいだった。

 

<関東東北から1000人受験50人採用=15歳で上京、羽田から下丸子に通勤、月給6000円>

 上京して就職した仲間たちの多くは住み込みだ。46時中、自由がない。自由こそが、人間の一番の価値に気付いたろう。

 

 北辰電機が、当時の計測器関連技術で日本をリードしていることなど知る由もなかった。50人募集に関東や東北から試験に殺到した。およそ1000人から選んだという。東京の自宅から通勤する仲間を見ると、うらやましくて仕方がなかった。

 

 午後4時30分に退社して、魚缶詰や漬物で夕食を済ませ、銭湯に行く。帰宅する途中、裸電球の家々の団らん風景を目にすると、痛く心が揺れた。15歳で親兄弟・故郷と離れて暮らすことの厳しさは、体験者でないと分かってくれないだろう。

 

 その対価は月給6000円、そこから年金などが引かれているのだが、それが何なのか知る由もなかった。一度、田園調布の病院で、蓄膿症の手術をしたことがある。

 

 北辰電機に入って間もなく、母から母方の祖母の死を告げられた。布団の中で、悲しくて涙が止まらなかった。小学校に入ると、毎週土曜日に母の実家へと歩いた。およそ1時間の距離だ。間もなく祖母の家の近くから通学している石井健君と友達になり、彼と一緒に山道の近道を歩いて一泊するようになった。

 

 祖母の家には、放し飼いの鶏が小屋で卵を産んでいた。祖母が、庭先の畑からネギを採り、刻んで生卵と混ぜて、ご飯にかけて食べるのが、最高のご馳走であった。父親が赤紙一枚で兵役に就くと、母は兄の手を引き、弟を背負って水戸の海軍航空基地に慰問に行った。3歳の孫の面倒を見てくれたのは、祖母だった。祖母の恩義は忘れられようがない。

 祖母の最期は哀れだった。嫁が放置して面倒を見てくれなかった。日本の家庭では、よく見られる現象であることを、母の最期でも感じさせられた。日本の女性は、老いも若きも男尊女卑に泣かされている。

 

 「木更津レイプ殺人事件」や伊藤詩織さん事件も、悪魔のような男たち・権力者らに、虐げられていることが証明している。悪人を弁護する法曹人が、人生を全うできるのであろうか。

 

 中学2年生の時、働き者の祖父が、記念にとツゲの若木10本くれた。見事な楓の植木は、とうの昔に枯れてしまったが、自宅に1本残ったツゲの大木が、昨年とうとう枯れてしまった。実家には2本残っている。それでも祖父母は、80年を超えて生きてくれた。当時では長生きした方である。

 祖母は数字が、滅法強かった。いま妹の次男が数学博士になって、教壇に立っている。遺伝は本当なのか。

 

<千葉市の通信高校教育、2年目から都立大付属(夜間部)>

 卒業時、担任の佐久間先生が「勉強を続けなさい。千葉市の高校に通信教育がある」といわれて、ハイと返事してしまった。一度だけスクーリングに参加した。担任の教師が「モズが枯れ木で鳴いている」という歌を教えてくれた。

 

 北辰に入社して驚いたことは、中卒者は一斉に夜間高校に通学したことだった。組み立て工場の先輩は、黒いボタンをつけた東京都立大学付属高校の夜間部に入っていた。さっそく1年遅れで、東横線の都立大学駅の八雲が丘の学校に4年間通って卒業した。といっても、学校では半分寝ていた。

 

 柔道部にも所属したが、時間不足で形を少し覚えただけで終わった。

 北辰本社工場の周囲は、三菱重工や日本精工、それにキャノンとは隣り合わせだった。夏目さんという年配学生はキャノン社員だった。三菱重工からの生徒は頭がよかった。

 

<みんないい先輩ばかりだった!大学2年間も夜間部>

 最初の辞令は、研究所に配属、部屋の一番奥にある、ちょっとした部品やらを作る工作機械のある職場で、見るからに優しそうな老人の手伝い仕事だった。木鉛さんという東大工学部卒のエリート技術者が、いつも優しく声をかけてくれた。

 彼は、その後に中央大学法学部の夜間部に入学した際、第二外国語の中国語の辞書を祝いに贈呈してくれた。ともかく、標準語もまともにしゃべれない田舎育ちの無学文盲の15歳児を、次の職場の工務課という現場事務の職場でも、みなさん優しくしてくれた。

 

 いやな思い出が不思議とない。長身の矢口さん、温和な堀江さん、町田さん、児玉さん、美人の山口さんとか、人柄の北辰人材ばかりだった。なかでも、長野県松本市出身の児玉さんは、高校野球でも知られた松本深高校だったと記憶している。彼は一度故郷に連れて行ってくれた。黄金週間の休みだった。 美ヶ原高原はこの時覚えた。圧巻は、白雪をいただくアルプスを見た時だった。今回ネットで北辰電機を調べ、そこにOB会の辰友会の存在を知ったからで、きっかけは児玉さんと連絡したかった、そのためである。白樺湖の衰退をYoutubeで見たことも。中曽根バブル崩壊の爪痕か。

 

 入社してしばらくすると、職場に食堂が完備していることに気付いた。朝昼夕三食とも。一番の贅沢は、納豆に生卵を混ぜ合わせた朝食である。生卵は祖母の思い出の食材だ。いまも納豆を食べている。周囲から「臭い」といわれても、止めようとはしない。

 

<横河電機に吸収合併にがっかり、北辰の羅針盤・工業計測器はNO1

 ある時、北辰電機が消えたことを知った。ライバルの横河電機に吸収されてしまった。正直、悲しかった。無学の若者を育ててくれた北辰電機を愛していた人間だったのだ。

 

 創業者は立派だったのだろうが、世襲させると、まずうまくいかない。日本政治の腐敗堕落は、同じく世襲にある。苦労知らずは、罠にはまりやすい。墓穴を掘るものである。

 

 組織は、世襲から墜落する。いい後継者を育成することが、将来を決める。北辰の創業者は、事業を世襲させた、その時に滅びの因を抱え込んでしまったことになろう。中国で生まれた羅針盤は、北辰の手で大きく羽を伸ばしたのだが、それを横河に盗られてしまった。工業計測器も。

 

 先進技術の吸収にも熱心で、筆者は米バートン社の工業圧力測定器の部品集めにも奔走した。部品名が皆ローマ字名に代わった。納期が迫ると、毎日下請けの会社に発破をかけることが少なくなかった。そういえば、これまで何度も北辰時代の夢を見た。同じ仲間がいる辰友会に相違ない。同会の物故者名に、山梨の工業高校を卒業、設計を担当していたMT君が2020年に亡くなっていたことを知った。いまも700人ほどが会員に残っているという。

 

 北辰は住友傘下、東京タイムズも住友に潰されてしまった。住友は、いま三井の傘下に隠れてしまっている。

 

<読売OB多田実先輩がびっくり、ナベツネの素行を語ってくれた>

 ナベツネの前の政治部長の多田実さん(二松学舎教授)が、母校・中央大学の機関紙を見て、ひどく誉めてくれた。筆者の曲がりくねった経歴に驚いたのだ。お陰で、亡くなる前にナベツネの素行の数々を語ってくれた。

 

 立派な人間は、なかなか頂点に立つことは出来ない。まず不可能であろう。

 参考までに多田さんは、硫黄島の熾烈な闘いに学徒出陣した生き残りである。「木更津レイプ殺人事件」の被害者の戦争遺児の父親も、米軍の制空権下、輸送船を米軍攻撃を受けて、船もろとも海中に沈んでしまった。戦争遺児を殺したのも、戦争だった。

 

 父の弟は、同じ船に乗っていて、運よく助かって戦後を生きた。父も無事に帰還してくれたため、4人の子供は生きながらえることが出来た。最後に言いたい!安倍や高市らの罠にかかることは、断じてあってはならない。肝に命じるべきである。

 15歳の春は、もう二度と訪れることはない!

2022年1月30日記(東芝製品不買運動の会代表・政治評論家・日本記者クラブ会員)

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