武漢大学の桜<本澤二郎の「日本の風景」(3644)
武漢大学の桜<本澤二郎の「日本の風景」(3644)
<日本軍負傷者の癒し、今は日中友好の象徴>
好天に恵まれた4月3日午後、散歩がてら木更津市役所出張所を経由して、武田川の川べりに咲く桜並木を歩いた。いまだに安倍桜が列島を押し包んでいて、川面に散る桜を眺めても、心が晴れることはない。
それよりも先日、米CNNが映し出した、武漢大学の見事な桜並木の映像の方を思い出してしまった。日中戦争最大の、正規軍による激しい戦闘場所が武漢だったことを、6年前に客員教授として招聘されるまで知らなかった。
熊教授が大学構内の桜並木を案内しながら、その由来を教えてくれた。無知な日本人ジャーナリストは、他愛もなく腰を抜かしてしまった。人生は驚きの連続だが、武漢大学の桜もその一つだった。
<武漢大会戦=日本軍30万VS蒋介石軍110万の死闘4か月>
「中原に鹿を追う」と言って自民党総裁選に臨んだ宮澤喜一は、戦後の日本政治家の中で語学の達人として、他を寄せ付けなかったが、彼は漢籍にも通じていた。その中原の要衝の地が武漢である。
日中戦争最大の激戦地を知る人は少なくなった。CNNは、武漢大学の桜を美しい映像で映し出したものの、その由来を明かそうとしなかった。知らなかったのだろう。
日本の桜は、ワシントンでも有名だが、中国では武漢桜が群を抜いている。まずは大学の構内の広さが、広大過ぎる北京大学や清華大学をはるかに上回る。
河川や湖水の広がる一帯に大きな山一つが、大学のキャンパスなのだ。中国の大学で勉強する学生は、自転車がないと、教室に辿り着くことはできないが、武漢は校内に自動車道路が走り、バスやタクシーが走っている。とてつもない広さに、まず圧倒される。
この武漢大学のある中原の地で、日本軍30万、蒋介石軍110万が激突、死闘を繰り広げた。首都・南京を攻略された蒋介石軍は、武漢で背水の陣を敷いた。対抗する日本侵略軍は、武器で勝る畑俊六が率いた。1938年のことである。両軍の死闘は4か月も続いた。
兵の数では、劣っていた日本軍は、戦闘機ではるかに勝っていた。
<野戦病院の傷病兵向けの桜並木>
日本政府の記録によると、日本兵の死者は実に8万人。大本営の発表かもしれない。実際はそれを優に上回っていたかも。中国軍死者は20万人という。
日本兵の負傷者が2万6千人、病死900人という。日本軍の野戦病院が、なんと占領した武漢大学だった。ここで多くの日本兵が命を落として逝った。
彼らの癒しを目的に、日本軍は祖国の桜を植えた。それが1938年なのか、翌年なのか。この時の桜が今も残っている。いわば戦争桜といえるだろう。
天皇絶対性下の国家神道と教育勅語で洗脳された若者たちを、戦場に狩り出した戦前の軍国主義の恐ろしさを、日本国民はこれからも忘れてはなるまい。母親の名前を叫びながら死地に逝った日本兵の無念は、いかばかりであったろう。反対に、獰猛な侵略軍と戦い、命を落とした中国軍兵士の親兄弟の悲しみを忘却すべきではない。
国粋主義者・安倍晋三の理解が、遠く及ばない歴史の真実である。
<1972年9月の国交正常化で平和桜>
石橋湛山が果たそうとして果たせなかった、中国との国交回復を実現した立役者は、大平正芳である。彼は池田内閣の官房長官・外務大臣として、舵を右翼から左に切ったが、A級戦犯容疑者の岸信介の実弟・佐藤栄作に蓋をかけられるや、田中角栄と連携して政権を奪うと、真っ先に外相に就任、一気に舵を元に戻して、決着をつけた。
1972年9月の国交回復は、日本戦後外交史の偉大なる自立外交の成果となった。筆者が日中友好に覚醒した時期でもある。1979年12月の大平訪中で、日本政府として政府開発援助(ODA)を約束、これが中国近代化・高度成長の中国を実現させた原動力である。このことに日本人は、唯一誇りとすべきだろう。
72年以降、武漢大学校内には、友好の桜が次々と植えられていく。そのための道路も誕生、地元の市民は言うに及ばず、全国から観光客が訪れる桜の名所となった。
来年は、日本人観光客が沢山訪問して、平和友好の実を誇らしげに謳い上げるといい。
<一冊の本=盧溝橋抗日記念館贈呈=シンポジウム通訳の熊さん>
それにしても、武漢への道は遠かった。因果に相違ないのだが、スタートは大平さんや平和軍縮派・戦闘的リベラリストの宇都宮徳馬さんだった。
「中国の大警告」(データハウス)という一冊の本が契機となった。これの英文名は、東芝病院で医療事故死した次男・正文による。出版されると、北京から電話がかかってきた。現在、清華大学教授の劉さん。社会科学出版社から翻訳本が完成した。彼は時折、ブログ「日本の風景」を読んで、連絡してくれる唯一の中国人学者だ。
国家主席になった胡錦濤さんが、翻訳本を真っ先に手を取ってくれたらしい。彼は首相になる前の小渕恵三さんに、人民大会堂でそれを手にもって紹介したほどである。
宇都宮さんの秘書の山谷さんが喜んでくれた。彼は「中国の党政府の要人は、みな読んでくれている」と。中国外交部で活躍した肖向前さんは、自宅に何度も電話してきた。彼は大平さんの偉大さを証明してくれたが、彼も「中国の大警告」に感動、北京訪問時には、いつも自宅に呼んでくれた。
もう一人は、義母の玄愛華さんだ。彼女は興奮して、ベッドで寝ないで、読んでくれた。北京滞在中、彼女の介護に専念させてもらっている理由の一つである。
この本は、100冊盧溝橋の抗日戦争記念館に贈呈した。中国青年報の蘇海河君が報じた。夏に大掛かりなシンポジウムが開催されると、そこに招待された。この時、通訳してくれたのが、当時、周恩来総理も学んだ天津の南開大学で、日本問題を研究・講義していた熊さん。彼はその後、武漢大学で教鞭をとっていた。一冊の本による奇縁が、武漢へと導いてくれたものだ。
<日中友好=ライフワーク=北京―天津―武漢>
新聞記者になってよかったことといえば、先輩の山口朝男さんが、政治部に引き抜いてくれ、大平派・宏池会を担当させてくれたことである。清和会でなかった幸運に感謝している。
宇都宮さんとの交流が、決定的にジャーナリスト人生を、正義と友好へと走らせてくれた。振り返ってみると、国民の多くが期待する、平和・友好が基軸となって、ペンを鋭くさせてくれている。
人間は、貧すれば鈍す、という、このことわざを跳ね返す馬力となって、権力・右翼に屈しない人生を、何とか道を踏み外さずに歩んでこれたと自負している。
そういえば、妻の仏壇には桜の写真が飾って、陰気さを吹き飛ばしてくれている。
2020年4月4日記(東京タイムズ元政治部長・政治評論家・武漢大学元客員教授)
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